ボクはこの一週間、色々といっぱい感じて
考えました
新宿での焼身抗議
国会議事堂のデモ
デモに行く人達に対する批判的な態度
そしてデモに行く人達の一方的な態度
ボクは2003年にイラク戦争が始まる時
サンフランシスコで戦争を反対するデモに
行ってきました。ボクも戦争は反対で米国が
イラクに行くのを本当に嫌がっていました。
でも、都市の中心に着いたとき、抗議をしていた
人の目立つ感情は怒り、怒りでした。ボクは
そこで動揺していました。この感情は
デモの中心であっていいのかと。個人的には
純粋の怒り、それはきっかけを作るとても大切
な感情だと思っています、でもその感情が保たれると
とても危険性があって問題点も増えて、隙間ができ
突っ込まれるところが増えちゃう。
2011年になってボクはニューヨークに住んでいて
ウォールストリート街の座り込み、オキュパイ・ムーヴメント
を父と見にいきました。そこでボクは大きな違いを感じました、
落ち着きがあってそこでは穏やかなエネルギーを感じました。
細かいメッセージも、一人の人間が人間の団体の輪で一行ずつ
言いながら、その周りがその一行を唱える。メガフォンを使わず
そのメッセージを皆が言う事で細かい所が浸透する。
しかしオキュパイの批評はそのデモをしていた時、言う事が多すぎて、そこのピントが
ボケてしまった、フォーカスが出来ていなかった。
デモと言う形は未だに変わりつつあって、この10年後また
違う形になると思う、音楽みたいに。
新宿の焼身抗議を見たときボクは本当に複雑な気持ち
彼の抗議したい内容を尊重して、ボクも自衛権に
ついては議論なしでそして国民にその議論の放送を
中継せずに通す事は問題点がありすぎると思う。
でも焼身抗議をした方は違うやり方で抗議が
できたはずで心が痛い。想像力を使って表現に工夫をすれば
自分を犠牲にしないで注目をもらえたのかもしれない。
そこに来ると抗議と表現と芸術の間の問題になりますが…
ボクはそこでTwitterの検索で「焼身」っと入力して
コメントを読むともっと落ち込みました、無感情的な
コメント、迷惑と思う人、文章の後にwwwwと入れる人
どういう事だろうっと思いました。
その次の日、国会議事堂でデモがあると聞いていて
ネットでストリーミングしていました。デモの抗議で
メガフォンを使って発言をする人で表現が磨かれていない
所にボクはまた動揺していました。
「…政権にむかって中指を立てよう!」
中指と人差し指も含めてその手の平を彼等に向けた方がいいのではないかと
思いました。そして「安倍やめろ」コールにもちょっと違うのでは
と思っていて。というのは彼がやめたとしても誰かが彼と一緒の意見を持つ人が
入れ替えるだけど思う。政治的な事より思想的ことで
コミュニケートしたほうがいいのじゃないかと。
それは個人的な意見
なぜ僕らは戦争反対なのかと、根から説明して
心の痛みを説明して。
そしてまたそのストリーミングしている場所で
批判するコメントの皮肉さにも動揺しました
その人種差別的な嫌み、心理的な戦略、「安倍やめろ」を「
らりるれろ」とか「飴なめろ」と空耳の使い方で
メッセージ自体を水で薄める事をしている。
そのコメントも10分ごとに何回もポストしている。
そのコメントをポストする人のアヴァターはアニメキャラとか
猫の写真を使って一瞬とても見やすく読んでしまう。
とても興味深いやり方だと思う。
そして近所のお友達から電話が来て「デモを自分たちの目で確かめよう」
となり、自転車で国会議事堂まで行きました。246をたどって六本木通り
の中で自転車をこいで国会議事堂の場所へ行く路についたら警察官がその道を
閉鎖していました、「ここは通れないので次の道を通って下さい」っと
僕たちは、「はい、わかりました」とうなずいて、
周りから入ってデモにたどり着きました。
そこでは太鼓と声が空気を振動させていました。
すごいエネルギーでした、
ボクは圧倒されました。
その中でやはりデモと言う中で怒りやその状況に酔ってしまい
態度も積極的になる事もある。暴言も聞こえる。
その中で警察官は落ち着いていた
そこにいた警察官達は冷たい目でデモを見る人もいれば
警察官同士で笑い合っている人もいました。
警察官の中でもきっと政府のやっている事を反対している人はいると思う。
デモの皆、政治家、警察官、全員人間
お互いを見下した瞬間ボクたちは会話をする機会、チャンス
を見逃してしまう。
デモをしている人達を警察官は囲んでいた、二重丸の様に。
まるで白血球が何かを囲むかの様に。
デモは自分の周りからも変えないといけない、警察がフィジカルな距離が
近ければ、そこからも会話を始められるチャンス。説明と説得でのデモは
大切だと思う
そこで23:30に近づいてきて
デモをする人は少しずつ減って行った。デモをする人も時間厳守をきっちり
守る所がとても良くも悪くも日本人らしいと思いました。
ボクが見たデモはとてもパワフルな物、分かりやすい部分でいっぱいだった。
そこは強さでもあり弱さでもあると思う。シンプルなメッセージこそ隙間
が多い、そこを埋める説明そしてその説明をどういう風にコミュニケート
をするかを考えなければいけない。
優しさと平和の威厳の態度、
人、それは全員の中に輝く物がある、その輝きが見えるのは一瞬なのかも
しれない、でも私たちはお互いにその輝きの証人になれば人間の意識の一歩を踏めるのかも
しれない。